最強の氷精 (後編)




「――――――――」

 魔槍が牙を剥き、暴虐の限りを尽くし奔り去った後、その軌道上には何も残らない筈である。
 ……残らない筈だったのだ。

(――――これは夢か?)

 レミリアは、我が目が正常に機能しているか疑った。それとも白昼夢を見ている可能性はないだろうか?
 もしこれが夢だとしたら、実に最悪の悪夢だ。悪魔がナイトメアにうなされるとは、皮肉にも冗談にもならない。


 氷の城壁は三分の一以上が消し飛んでいるが、まだ大部分が空中にその威容を示している。
 残された氷壁には無数のひび割れが走り、かつての美しい透明度は微塵も残されてはいない。だが、崩壊しつつある氷壁の向こう側には、妖精が浮かんでいた。
 右腕を肩口から失い、苦悶の表情を浮かべてはいるが、ただ一つの瞳から浴びせられる視線は、それでもなお戦う意思を有している。

「何故だ!? 何故生きている!!!?」

 妖精が、妖精如きが、全力の魔槍を受けてなお、生きているなどあり得る筈がない。
 たとえ相手が、幻想最強のドラゴンや神霊の類であったとしても、魔槍が当たりさえすれば浅くはない傷を負わせる自信があった。
 吸血鬼異変の際、四重の結界で魔槍を受け止めた者だって例外ではない。あの時、もし命中していれば、その者の肉体は挽肉機に入れられた肉よりも、さらに無惨に引き裂かれていた事だろう。
 伊達に神の槍からその名を拝借した訳ではない。我が魔槍には、その名に恥じないだけの威力がある。

 それを人間と同等か、それ以下の虚弱な肉体しか持たない妖精が耐えきれる筈がない。魔槍が0.1インチかすっただけで、妖精の肉体は骨すら残さず蒸発する筈なのだ。

 だからレミリアにとって、目の前の光景は悪夢と等しかった。己の全力が、妖精というちっぽけな存在に全否定されたかのような錯覚さえ憶えていた。
 あらゆる負の感情が内包された視線で憎々しく睨みつけていたレミリアは、いまだ浮遊している氷の盾が傾いている事にはたと気付いた。
 その不自然な傾斜は、グングニルとの衝突により傾いたのか、それとも……?

「まさか……いや、そんな……」

 レミリアは一つの可能性を思いつくが、それを肯定する事は出来なかった。

(まさか。そんな事が果たして可能なのか?)

 何度も思考を反芻(はんすう)させた末、ようやくその可能性を口に出す。

「“盾”に傾斜角を付けて、グングニルの軌道を逸らした、とでも言うのか……?」

 我がグングニルは、その程度の策で回避できるほど脆い存在ではない筈だ。……しかし、現に目の前では妖精が生き残っている。あれが夢や幻ではない以上、その事実は受け入れなければならなかった。
 だが、たとえそんな夢物語が可能だったとしても、ただの氷の塊でそんな奇跡が叶う訳がない。だとしたら、本当にあの氷には鋼鉄並みか、またはそれ以上の強度があったとでも言うのか……?





 レミリアの背筋に冷たい物が走る。
 無性に喉が渇き、掌が汗で滲んでくる。これほどの焦燥感を味わったのは一体何年ぶりか、それとも何十年ぶりか。

 妖精はすでに死に体。体中からおびただしい出血を伴い、このまま何もしなくても、あと数分もすれば勝手に自滅してくれるほどの致命的な重傷である。

 対して、自分は何回か被弾を許したものの、ほとんど無傷状態であり、体力、魔力とも万全とまではいかなくとも、それに近い状態である。
 すでに勝敗は明確な筈だ。放置しておくだけで確実に勝利が手に入る。しかし、レミリアはそれだけの時間が待てなかった。
 圧倒的優位な立場にありながら、レミリアは胸騒ぎが収まらなかったのである。

(この妖精は危険すぎる……!)


 どれだけ強かろうと、真正面から力任せにぶつかってくる敵は先読みが容易であり、その対応がしやすい。しかし、直接的な戦闘力は弱くとも、この妖精のように奇手ばかり用いてくる敵は実に厄介だ。
 何をするか予測できない分、その対応がどうしても後手に回る。下手をすれば出し抜かれかねない。……否、すでに十分出し抜かれたと言って良いようなものだ。

 あれはもはや、多少の場数を踏んでいるというレベルではない。明らかに命を賭けた死闘を体験し、その中で死線を乗り越えてきている。それも一度や二度ではないだろう。
 頭の良し悪しや、力の有り無しは関係ない。激戦をくぐり抜けてきた『経験値』とも言うべき肉体への記録が、あの妖精の実力を何段にも底上げしている。

 これから先――妖精に残された時間が、たとえあと数分であろうとも――先手を打たせてはいけない。それがレミリアの結論だった。

(ここは直接攻撃で一気にカタをつける……!)

 と同時に、レミリアは自身の無傷を放棄する。今こうしている間にも、妖精が何らかの『奇手』を虎視眈々(こしたんたん)と狙い、用意しているかもしれない。
 レミリアは予測不可能な受けに回るよりも、多少の危険性はあっても接近し、確実に仕留める方を選んだのである。

(――――惜しいな)

 レミリアは心の底から、その一言の言葉が自然に湧いてきた。
 自身にここまでの覚悟を強要させる存在があり、しかもそれが妖精ときたものだ。

(もしあの妖精が、妖精としてではなく妖怪として生を受けていたならば、もっと面白い戦いが出来たであろうに)

 それはある意味、形を変えた賛辞でもあった。
 すでにレミリアからは、妖精がしでかした罪に対する怒りなど、欠片も残ってはいなかった。というよりも頭の中から抜け落ちていたほどである。
 レミリアは、ただひたすらに目の前の敵を撲滅する事を考えていたが、怒りの感情が抜け落ちた今では、それまでとは違った冷静な落ち着きを取り戻していた。





 彼我の距離は、依然として100ヤード前後はある。
 いくら吸血鬼の飛行速度が速いと言っても、瞬間移動する訳ではない。1秒かそれとも0.1秒か。どんなに短い時間であれ、実際にその空間を移動する以上はカウンターで攻撃を喰らう可能性はある。
 そのパーセンテージの高低など関係はない。ゼロでない以上は常に危険であり、事実、あの妖精は今まで限りなくゼロに近いパーセンテージをひっくり返してきたのだ。

 レミリアはその背に誇る、黒き羽を大きく大きく夜空に開く。全力で飛翔すれば、妖精などでは視認も視覚も出来ない筈である……が、それほどの楽観はしていない。
 レミリアの動きに勘付いたのか、それとも別の意図があるのか、妖精もまた、砕けた氷の羽を懸命に動かし、ゆっくりと飛行を始めた。

(……まだ何かするつもりか!?)

 すでに妖精の出血は停止している。もちろん傷が癒えた訳ではない。血液という血液が出尽くし、もはや一滴の体液すら残されてはいないだけなのだ。
 おそらくは、妖精の種族としての不死性のみで現状を保っているのであろうが、それも限界に近いはずだ。
 潤滑油の切れた機械はいずれ故障し、停止する。血液をすべて失ってなお、生きられる生命体など存在はしない。

 それでも妖精はすっと左手を上空へ掲げたまま、レミリアの周囲を飛行する。
 その様は、なにかのタイミングでも測っているように見えた。

(やはり、何か狙っているな……!)

 だが、特に弾幕を張る事もなければ、何か魔力の変動がある訳でもなかった。
 しかし、妖精の特殊能力が単純な冷気操作ではないと仮定するならば、そんな見た目の変化など何の目安にならない。
 一刻の猶予もない。妖精がまた何か予測も付かない奇手を使う前に、早く潰すべき……と身構えた所で、レミリアはその攻撃の手をも止めてしまうほどの、ある異常事態に目を奪われたのである。


 妖精の背後に見える、巨大な湖。時折、紅魔館の窓から見ていたその湖の大きさや形状が、自分の知っているそれとははまるで異なっているのである。いや、普段のものと比べて明らかに小さい。
 目を凝らして良く見てみると、湖の周囲には広範囲にわたって泥やら苔むした石などが露出し、それに混じって、大量の魚が口をぱくぱくとさせながら地面の上に転がっている。
 それはまるで、急激に湖の水位が下降したかのような有り様だった。

「――――!!!?」

 一体、これはどういう事か? 急激に湖が干上がったとでもいうのか? そんな事が起こりえるのか?

 と、レミリアは周囲の気温が著しく下がってきている事に気付く。
 今までも気温が下がってきている事は、なんとなく感じていた。だが、それは目の前の妖精が冷気やら氷やらを扱うせいであり、氷弾幕などの影響でこの辺りの気温が低下しているのだとばかり思っていた。

 しかし、よくよく考えてみると、弾幕程度の氷でここまで気温が下がるものなのだろうか?
 この気温の下がり方は尋常ではない。大ホールのような密閉された空間ならともかく、このように開けた空間の温度を下げるなど、並大抵の事ではない。
 それこそ、まさにこの空間ごと冷凍されているかのようだ。

 そこまで考えたとき、レミリアは胸騒ぎにも等しい激しい悪寒に襲われる。
 ……まさか。この気温の下がり方と、湖の水位の急激な減少、この二つに関連があるとしたら……!!
 不安にかられたレミリアが周囲を見渡すが、何もない。
 ただ、自分と妖精と、戦いで傷ついた森や大地があるだけである。単なる思い過ごしか、妖精に対する過大評価が過ぎたのか。
 そう思いながら、レミリアは次に上空を見上げ――――

「!!!!」

 上空にある異様なまでに異常な光景を確認した時、闇の支配者たるレミリアといえど痛烈な沈黙を強要され、驚愕の声がその口から漏れる事はなかった。


 “そこ”に、は巨大という言葉では表現しきれないほど巨大な、氷の塊が宙に浮いていた。
 満月をも飲み込むそれは、紅魔館よりも圧倒的に巨大な氷の塊だった。重量はどんなに少なく見積もっても数百万ポンドはある。

(今まで、これほどの氷塊に気付けないとは……!!)

 いくら吸血鬼といえども、これほど巨大な氷塊に押し潰されれば、ほぼ致命的……下手をすれば即死すらあり得る。例えるなら、紅魔館が丸ごと落ちてくる様なものである。そして問題は、その氷塊が紅魔館より大きく、中身が詰まっているという事だろう。

(我ながら、なんという不覚!!)

 レミリアは、自分自身の失態と不覚さを最大級の怨嗟で呪いに呪った。握りしめた拳から血が流れたが、自身への怒りから痛みなど知覚すらしなかった。
 だが、妖精はこれほど巨大な氷の塊をいつの間に作ったというのだろうか?
 いくら妖精が冷気を扱う能力を有しているとはいえ、少なくとも一分や二分では到底無理な筈である。もし妖精がこれだけの氷塊をすぐに作り出せる事が可能だったのならば、今までの戦いの中でとっくに使用していたに違いないからだ。

(だとしたら――最初からこれを用意していた?)

 徹底的に弾幕戦に終始していた事も、ほとんど賭けに近いはずの魔槍の回避も、すべてこの巨大な氷塊を作るの為の時間稼ぎだったとでも言うのか?
 高低差の優位性を捨ててまで、常に自分より少し低めの高度を飛んでいた事も、上空へ関心を向けさせないための布石だったとでも?

(そんな馬鹿な――――仮にそこまで考えていたとしても、途中で自分がやられる可能性の方がずっと高いではないか……!)

 妖精と吸血鬼では身体能力が違いすぎる。これだけの氷塊を作るまでの長時間、時間稼ぎなど出来るはずがない。……と、そこまで考えた時、先ほどまでの戦いの様子がレミリアの脳裏をよぎった。
 妖精にトドメを刺せる瞬間などいつでも……それこそ何度でもあった。だが、結局はレミリアはそれをする事もなく、少しずついたぶるように戦ってきた。

(まさか、この私が簡単には殺さないという事まで計算に……!?)

 ――馬鹿な。それでは。

(それでは……弄(もてあそ)ばれていたのは私の方ではないか!!)

 レミリアはその考えを自己の中で否定し続けた。否定したかった。あんな馬鹿面を絵に描いたような妖精の掌の中で、無様に踊っていたなど認めたくはなかったのである。

(そんな筈は……そんな筈はないのだ。これは偶然に決まっている!)

 しかし、それが偶然であろうと必然であろうと、実際に脅威が存在する以上は、それに対応しなくてはならない。
 レミリアは自己の失態に対する追求を一時棚上げし、眼前の脅威に対処すべく、フルスピードで思考を始める。
 何しろ、レミリアは超巨大な氷のほぼ真下に位置している。妖精を攻撃しようにも、一旦撤退しようにも、全てが中途半端な位置なのである。

 突き付けられたチェックメイトの中、見上げるその氷塊は、一度では端から端までを見渡せないくらいの超巨大さにも関わらず、月明かりを難なく透過させている。
 なるほど、これだけの透明度ならば気付き難くくはあるな、とレミリアは何処か現実逃避にも似た感想を抱いていた。


「潰、れ……ろっ……!!」

 上空の氷に気付いてから今まで、一秒にも満たない僅かな時間ではあるが、レミリアは軽い混乱状態の中でどう動くべきか決めかねていた。
 そんなレミリアに対し、審判の時は容赦なく時間切れを宣告する。

 妖精が左腕を振り下ろすと、それまで風船のように浮いていた氷塊は、突如として自らの重量を思い出したかのように落下してきた。
 地球の重力に束縛され加速する氷の鉄槌は、そのあまりの巨大さ故、回避など望めようもない。

 グングニルを呼びだし、投擲する時間などない。
 百匹の蝙蝠に変化しようとも、それごと全て潰される。
 もちろん、弾幕では破壊不能だろう。

 いよいよ進退窮まったかと思われた時、レミリアは何かがふっきれたような笑みで吠え叫んだ。

「――は!
 私こそは誇り高きブラド・ツェペシュの末裔にして、気高きスカーレット一族の長!
 暗き夜の世界を統べる、このレミリアを――――レミリア・スカーレットを舐めるなああぁぁっ!!!!」

 レミリアは氷塊を睨みつけるように空中で静止すると、両手を左右にかざし身体からオーラのように魔力を噴き出す。それは氷塊にも負けない巨大な十字架を形成すると、落ちてくる氷塊を重く受け止めた。


 闇に突如として現れた巨大な十字架は、一切の制御なしに放出されたレミリアの魔力そのものである。一点の破壊力ではグングニルに劣るが、その凄まじい魔力の放出はタイフーンやサイクロンなどとは到底比較にすらならないほどの暴風となり、周囲のありとあらゆる物を破壊し尽くし、絶虐への侵略対象とする。
 真紅の十字架によって地上への下降を遮られた氷塊は、僅かずつではその速度を落としていき、レミリアまであと数ヤードという距離で完全にその動きを停滞させる。

「はあああぁぁぁぁ――――――!!!!」

 レミリアはさらに生命力を魔力に変換し、放出し続けた。
 二十年や三十年程度、いや例え百年の寿命が縮んでも構わない。そんな未来の問題よりも、今ここで地に伏っする方がはるかに重大で、そして屈辱であるのだ。
 魔力の奔流で充ち満ち、溢れた紅き十字架は、僅かずつではあったが氷塊を押し返して行く。と同時に氷塊には無数の亀裂が走り、破片が飛び散っていく。

(……あと……もう少し……これさえ凌ぎきれば、今度こそ……!!)

 身体中の臓器や骨、筋肉などから悲鳴があがり、血液が沸騰したかのような激痛が全身を駆け巡る。
 だが、レミリアはそんな事には構わない。ただ、何かに取り憑かれたかのように全身から魔力だけを貪り、そして放出し続ける。己の誇りと勝利の為だけに。





 ――その時間は一分か、それとも十分だったのか……否、すでにここには時間という概念など存在してはいなかったのである。
 氷塊はしぶとく、全体に数え切れないほどの亀裂が入ってなお、レミリアを押し潰さんとその巨体を落下させ続ける。この危険なチキンレースに乗ってしまった以上、レミリアはただひたすらにそれを迎え撃つしかなかったのだ。


 いつまでも続くかと思われたこの均衡にも、終演の幕が降ろされる時が来た。それは突然であり、また実に呆気ない幕切れであった。
 レミリアの、文字通り魂を燃やした命の十字架は、氷塊を貫き、融解させ、そして崩壊させた。

「……ふ、ふははっ、やったぞっ!」

 あれほど巨大であった氷塊は、まずは中央部分から真っ二つに砕けると、その後は何か支えでも失ったかのように細かな断片へ、そしてさらに小さな破片へと自壊していく。
 その様は、かつて自らを振り返りもせずに増長した人間達が、天に昇ろうとして神の怒りを買ったという、バベルの塔の末期を思わせるほど、儚い幻想であった。
 その中にあってなお、魔力で形成された真紅の十字架は、レミリアの勝利を鼓舞するかのように長く、大きく、天にまで届いた後、夜というキャンパスの中で暗闇に上塗りされるように、掻き消えていった。

「はぁ……、はぁ……、はぁ……。
 ……はっ、はは、ははははっ!! どうだ!」

 魔力を放出しきったレミリアは肩で息をしながら、妖精へと視線を移す。
 彼女たち二人の周囲で砕け散る氷は、さながら雹や霰のように細分化され、人間大以上の大きさを残したものはほとんど見受けられない。

(――これで、今度こそ私の勝ちだ!)

 すでにグングニルを呼び出すほどの魔力も残されてはいないが、身体能力だけでも妖精の十匹や百匹、軽く絞め殺せるだけの力は残っている。
 今度こそ、今度こそレミリアは勝利を確信した。もはや妖精には、打てる手段は何一つ残されていないのだ。

「――!」

 だが、もてる限りの奇手、奇策をすべて使い果たした筈の妖精の瞳は、この期に及んでなお勝利を確信しているかのように力強く輝いていた。
 レミリアは、その瞳が気にくわない。……なぜ、どうして、この状態から勝利できる要因を見出せるというのだろうか!?
 この絶望的状況を打開出来る策があるというのか?

 ――否、否である。そんなものあるはずがない。たとえ百歩譲って、そんな代物が存在したとしても……目の前の妖精に、それをするだけの時間も余力も残されてなどいない。

「っ――、その目をやめろ!」

 放っておいてもあと数分、いや数十秒の命。だが、それすら惜しい。
 妖精の現状では、すでに弾幕すら撃てるか疑わしいが、ここで勝手に自滅されるよりも、自身の手で戦いに幕を引いた方がいいだろう。
 何より、その方が意味がある。それに、ここまで手こずらせてくれた“強敵”に対する礼でもある。

 そう考えたレミリアは、今度こそ躊躇はせまいと妖精へと襲いかかった。
 全力ではないが、かなりの高速度。負傷した妖精では、回避は不可能だろう。もっとも、負傷などしていなくても、妖精の身体能力では対応できない速度なのだが。


 レミリアは真正面から妖精へと接近したが、妖精は回避も迎撃もしなかった。もはやそれだけの体力すら残されていないのだろうが、レミリアはそれでも手を抜く事はなかった。
 もしかしたら無意識のうちで、妖精に対する不安感があったのかもしれない。
 レミリアは妖精の死角へと瞬時に回り込み、その爪を鋭く振り下ろす。これで、本当に決着がつくかと思われた、その時。

「――ひあっ、!!?――」

 突如としてレミリアの腕に走る激痛。
 あまりの突然の出来事に、レミリアは紅魔館の当主としてあってはならない程の情けない声をあげてしまう……が、それぐらい予想外の出来事だったのである。
 咄嗟に腕を確認してみると、まるで火傷のような火膨れ状態になっている。

(!?――――!!――――!!!!)

 はっとなり、上空を見上げたレミリアの目に飛び込んできたもの、それはレミリアの勝利を押し流す――“雨”――であった。
 そしてレミリアは全てを理解する。自身には、勝利を呼び込める運命など残っていないという事実に……。


 レミリアはつい先ほどまで、氷の真下で魔力という『炎』を盛大に炊いていたのだ。それは吸血鬼にとって、自分でギロチンの留め金を外すに等しい愚行だった。
 しかもその重大性に気付かず、あろう事か勝利に酔いしれ、自ら『雨』の中へ飛び込んでいくとは……。

「――“氷”は、溶ければ“水”になる。……こんな……こんな、ガキでも解る簡単な理屈を失念していたとは――」

 大部分の氷は、レミリアの膨大な魔力によって吹き飛び、細かき破片や雹となって湖や森などに落下したが、それでも融解した氷のもたらす水量は甚大だった。

 吸血鬼にとって流水は弱点の一つである。全身を流水で焼かれれば、それこそ命に関わりかねない。
 一刻も早く、この場から逃げ出さねばならない。
 だが、局地的なスコールとも言える膨大な流水の真っ只中へと投げ込まれたレミリアに、退路を見出す事など不可能であった。


 まるで頭から酸を浴びせられたかのように体中がただれ、白煙を上げながら焼き尽くされていく。
 羽は早々に溶け落ち、一部には骨が露出し始めていた。

(なるほど、妖精のあの絶対の自信はこれだったのか……)

 奇手や奇策など無くてもよかったのだ。……ただ、動かずに待っているだけで、間抜けな吸血鬼が自ら死地へ飛び込んでくれる。

(ふん。あれだけ妖精を散々見下してきた私が、結局は一番の間抜けだったとは……)

 先ほどまで全身を貫いていた激痛は、今はほとんど感じなくなった。それは痛覚を感じる神経までも焼かれたという事であり、すでに末期に近いのだろう。
 指先はとっくに白骨化し、美しく月明かりに照らされていた耳や鼻、優雅に紅茶を嗜んでいた唇も、今では見る影もなく溶け落ちているが、幸いなことにレミリア自身がそれを見る事はなかった。

(私は、どこで間違えてしまったのだろうか……?)

 妖精の実力を見誤ったからか?
 殺せる機会は腐るほどあったのに、それを実行しなかったからか?
 単に、運が悪かったからか?

 ――いや、違う。すべては初めて妖精と相対した時。
 妖精の運命を垣間見、その能力をこの目で確認してもなお……小物と侮り一笑に付した時から、すでに私の運命は負けていたのだ。

 ほとんど見えなくなった狭い視界の片隅では、妖精もまた力尽きたのだろう、徐々にその高度を落としていく……が、このまま行けば先に地に伏すのは自分の方だった。

(ふん……認めるのは……悔しいが、貴様の……勝ち、だ……)

 僅かに残された五感が、地面に落下する衝撃を感じ取った時、そこでレミリアの意識は静かに途絶えた。










 不思議な暖かさが辺りを包んでいる……ような気がする。人間で言えば、太陽の下で寝ころんでいるとでも言うべきか?
 吸血鬼たる自分が言うべき比喩ではないが。
 それとも、暖炉の前で居眠りをしているとでも言い換えるか。

 ――不思議だ。
 と、そこでレミリアは自分が意識を取り戻した事を知った。考えられるということは意識があるという事である。
 もっとも、ここが死後の世界や夢の世界でなければ、の話ではあるが。

「――――――――」

 ここは? と寝ぼけ眼で辺りを見渡せば、天井も内装も見覚えのある物ばかり。つまり、そこは自分の寝室であった。
 つい反射的に身体を確認してしまってから、完全に目の覚めたレミリアは自分の行動に苦笑する。どうやら、またあの時の夢を見てしまったようだ。

(ここ最近は見ていなかったのに、今になってあの夢を見るとは……)

 一体、あの時から何十年もの年月が経っているというのだ。

 一定周期で見てしまうその夢。
 どうやら相当トラウマになっているようだが、それも仕方ない。あんな妖精一匹に、屈辱的な惨敗を喫するなど、忘れろという方が無理だ。しかも馬鹿を絵に描いたような性格なのである。

 時計を見れば、午前十一時前後。完全に真っ昼間である。今、この部屋の雨戸を開ければ、吸血鬼が忌み嫌う太陽の光が飛び込んできてしまうであろう。
 眠りについてからまだ四時間も経ってはいないが、目の冴えてしまったレミリアは、ベッドの近くに置いてある小さな魔法のベルを鳴らす。
 その音色は、この館にいる限り、何処に居ても必ずある者の耳に届くようになっている。

「お呼びでしょうか、お嬢様」

 ベルを鳴らしてから一秒も経っていないのに、すでにその従者はレミリアの眼前に控えていた。

 彼女は十六夜咲夜。人間でありながらこの紅魔館でメイド長をしている。
 そのメイドとしての働きぶりと人間離れした実力で、先代メイド長であるスザンナからも、これなら後釜を任せられると太鼓判を押されてその座を引き継いだ。

 もっとも、メイド長の交代時期の前後に何やら多少のトラブルがあったようだが、それに関してはレミリアの関与する所ではない。
 たとえ、人間である咲夜が上司となる事に不満を持った別の従者が、全身ナイフまみれで壁のオブジェとなっていたとしても、だ。
 この紅魔館に仕えるからには、それくらいの火の粉は振り払えて当然。代々のメイド長が交代する前後には、必ずと言って良いほど発生する、恒例行事だからだ。

 例外としては、スザンナが就任した時ぐらいであろうか。あの時は吸血鬼異変の直後で、ありとあらゆる事が混乱している真っ最中であった。
 先代メイド長は後任を決める事もなく戦死してしまったので、レミリアが新しいメイド長としてスザンナを直々に指名すると、特に問題もなく決定したのだ。もっとも、それも何十年も過去の話だ。


「目が冴えてしまったの。しばらく起きてるから、お茶の準備でもして頂戴」
「かしこまりました」

 咲夜がそう答えるか、答え終える前にレミリアはすぐに用件を修正する。まったく忙しない主だが、早く用件を伝えないと咲夜が消えてしまうため、ぐずぐずはしていられないのだ。
 気紛れを言う側も、なにげに大変である。

「あ――ちょっと待ちなさい」
「なんでしょうか?」
「やっぱり、このまま起きているわ。少し外に出たいから、パチェに伝言を伝えて欲しいの。
 あと、着替えるから手伝って」
「かしこまりました」

 次の瞬間、まるで手品かなにかのように、咲夜の両手には折りたたまれたレミリアの普段着が音もなく存在していた。





 着替えを終えたレミリアが、従者を伴って紅魔館のテラスへと移動する。
 二階の屋上部分に設けられたテラスでは、数名の妖精メイド達が待ち受けていた。手には清掃用具を持っており、咲夜が声をかけるとお辞儀をして出て行った。
 どうやらレミリアが着替えている間に、妖精メイド達へ清掃を命じていたようである。流石は完全で瀟洒なメイド長。その働きぶりは歴代のメイド長の中でも三本の指に入るだろう。

 レミリアが席に着くと、すぐに紅茶とお菓子が用意される。
 咲夜を傍らに控えさせたまま、レミリアは「今日はいい天気ね」などと、吸血鬼にあるまじき言葉を口にしながら遠くの景色を眺めた。

 このテラスから眼前に見える景色は、湖と森林のみ。その湖にも、濃い霧がかかっている事が多いのだが、今日は霧は出ておらず、湖のほぼ全景を見渡せる。

「……? あれは……?」

 湖上には小さな点が二つ浮かんでいる。
 この距離を持ってしても、何やらただならぬ雰囲気が察知できるその動き方に、レミリアは戯れとばかりに目を凝らすせば、見覚えのある二つの影が何やら言い争っているように見える。

 やがて、片方の氷の羽を持った青い影と、箒にまたがった白と黒の影はどちらともなく距離を取り、当然のように弾幕ごっこが開始された。
 二人の放った弾幕により、空の一辺が様々な色や形の点描によって染められていく。

(ふん……例の問題児二人か……)

 二つの影の正体に見当がついたレミリアは、暇つぶしの余興にと、その戦いを眺めながら紅茶でも嗜もうと思いたった。しかし、レミリアがカップを手に取った時には、湖の上で戦っていた青い影は、もう片方の白黒の影いに吹き飛ばされていた所だった。
 一筋の煙を曳きながら落下して行った青い影は、途中で持ち直す事もなく湖に大きな水柱を立てる。その間抜けな着水音は、これだけの距離があるこのテラスにまで聞こえてきた。

 まだカップに口も付けていないのに、いくらなんでも早すぎる決着。レミリアは内心で呆れかえった。

(あれが、この私を曲がりなりにも屈服させたヤツの成れの果てとは……)

 箒にまたがった白と黒の魔法使い――霧雨魔理沙――は、その速度を落とすことなく対岸の目的地……要するにこの紅魔館へと近付いて来る。


「待ちなさい!」

 視界の片隅では、いつものごとく門番が立ち塞がり、

「今日も、ちょっと通らせてもらうぜ!」
「貴女の場合は、ちょっとじゃないでしょう!?」

 いつものごとく魔理沙との弾幕ごっこが始まる。
 ……そして、その結果もほぼ決まり切っている。

「――くそっ、背水の陣だ!」
「悪いな、これ以上の背水はないぜ?」

 門番である紅美鈴を軽く突破した魔理沙は、そのまま中庭を跳び越え、紅魔館内部へと進入して来る。
 この時の進入経路は特に決まっておらず、正面玄関から堂々と入ってくる事もあれば、窓や勝手口などから入ってくる事もある。つまりは、その時の魔理沙の気分次第なのであった。

「こ、こらっ! 待ちなさいと言ってるでしょう!」
「待てと言われて、待つのは馬鹿だけだぜ」

 魔理沙を取り逃がしてしまった美鈴は、門から中庭近くまでは追ってきたものの、それ以上は追跡しなかった。

 門番とは、その名の通り門の番人。屋敷の内部とは、管轄も責任も違うのである。
 それに門番がたった一人の侵入者にかまけて、いつまでもそれを追いかけている事は好ましくはない。
 門番が持ち場を長く離れていれば、本来守るべき場所が手薄になる。そこへ別の侵入者がやって来るという事態も考慮しなければならない。前の侵入者が囮という可能性もありえるからだ。

 ……もっとも、今の幻想郷ではそんな非常事態など、起こりえないのだが。
 あるとすれば、一年に一度ぐらいの頻度で発生する、異変の際に組まれる特別警戒の時か、たまにやって来る天狗の記者や、それとも人間の里からの使者への対応ぐらいか。

「あうう……また魔理沙さんに逃げられてしまいました……」

 がっくりと肩を落とし、ゆっくりと正門へと戻っていく美鈴。
 屋敷へと進入した魔理沙は、内勤のメイド達やメイド長である咲夜が対応するだろう。それが来客用のもてなしなのか、弾幕ごっこによる歓迎なのまでかは判らないが。


「まったく……美鈴はまた進入を許したようですね。これでは何のための門番かわかりませんわ」
「ふふっ、確かに最近は負け込んでいるようね……。
 昔は鉄壁の防御力を誇った紅魔の守護神も、近年の平和で少しばかり錆び付いてしまったかしら?」

 美鈴は特に気付いていなかったようであるが、その一部始終は己の主に知られる所となっていた。
 咲夜は、魔理沙を通してしまった美鈴の責を問うているが、レミリアは気にかける様子もなく紅茶を嗜んでいる。

「いつも言われているその事ですが、私は美鈴がそのような評価を受けていたとは到底信じられないのですが……」
「なにも不思議な事じゃないわ。……貴女だってそうでしょ、咲夜。
 私がどんな手段を持ってしても侵入者を排除しろ、と命ずれば貴女は侵入者を生きて返すかしら?」
「屋敷を踏みにじる者に対する制裁として、お嬢様がそう望むならば」
「そういう事よ」
「?」
「パチェが本気で魔理沙を追い返そうとするならば、人間の魔法使いなんかでは到底抜く事の出来ない結界を何重にも張るぐらい、造作もない事だ。
 それをせずに、わざわざ『抜け道』が用意されたトラップを使用している時点で、パチェの内心など理解できるというもの」

 だろ? というレミリアの言葉はの中には、同意を求めた意味を内包している。咲夜としても反論すべき箇所はないので、「その通りでございますね」と、レミリアの言葉を肯定した。

「今この時ですら、時間を止めて魔理沙を縛り上げる事ぐらい簡単に出来るのに、それをしない奴もいる事だし、な?
 ――もちろん、悪い意味ではなくでだぞ」

 そう言い、レミリアは不敵な笑いにも似た、はにかみを見せた。続き、咲夜もまた軽く微少で答える。

「それが叱責の意味だったならば、今すぐ魔理沙を地下室へ放り込んでいた所ですわ」


 もしもレミリアが本気で侵入者を拒み、それを望んでいたとするのならば、魔理沙はこの館へ一歩どころか指一本すらの進入も出来はしないだろう。
 おそらくは、初期防衛地点……いつも魔理沙が容易く突破している門番……紅美鈴の守る紅魔館正門で、その侵攻は容易く跳ね返されるはずである。

 数百年もの長き年月を、侵入者の血と屍を持って門を護り続けてきた最強の守護者に対し、スペルカードルールなしで決闘を挑み、その背後の道を無傷でこじ開けられる者など現在の幻想郷に一体何人存在するのだろうか。
 ……少なくとも、魔理沙はその頭数には入ってはいない。

 いわば連日繰り返される魔理沙の進入と、それを排除しようとする紅魔館側の対応は、それ自体が大きな弾幕ごっことも言える『遊び』であった。
 もちろん今の幻想郷には、スペルカードルールというものがあり、さらに吸血鬼条約で縛られている以上は、即死・即滅亡に繋がる物騒な手段や、危険な手段に訴える事は出来ないという誓約もあるにはある。

 それでも、門番である美鈴、メイド長である咲夜、そして魔女であるパチェリー。彼女たちはその事を理解し、また本人達も面と向かっては迷惑だの何だと言いながらも、この『遊び』を内心では楽しんでいた。
 なにより、この紅魔館の主であるレミリア自身がこの『遊び』を望み、楽しんでいるのだ。
 そうでなければ、いくら今の幻想郷が昔に比べて幾らか平穏になってきたとはいえ、そう何度も進入を繰り返されてなお、生きて屋敷からの帰還を許すという恥辱を、紅魔館側が平然と容認する筈がない。

 ただし、魔理沙自身が人間としては破格の強さを持っており、スペルカードルール上に置いては紅魔館住人の誰であっても――たとえ当主たるレミリアであっても――互角以上に戦い、そしてそれを打ち破る可能性を持っているが故に認められた『特権』であるという事も、強く強調しなければいけない部分ではあるが。





「――およ? 吸血鬼が真っ昼間からこんな所で日光浴とは、ちょっと正気を疑うぜ?」
「……あら? 目の前で堂々と侵入した来たがこそ泥が、平然と私たちの前に現れる事の方がおかしくなくて?」

 何を考えたかそれとも考えていないのか。よりにもよって、魔理沙はテラスでくつろいでいたレミリア達の前へと現れると、平然とした態度で箒からひょいと飛び降りる。
 レミリアは魔理沙への対応の手間よりも、よくもまあ逃げも隠れもせずにここへ顔を出せるものだとという、その大胆不敵な思考に呆れていた。

「それは違うな。私は今は何も盗んでないから、こそ泥なんかではないぜ。
 ……強行突破してきた事については、百歩譲って認めてやってもいいが」
「百歩も譲らなければ認めないのね。
 まあいいわ。それより、今まで盗んだ本があるでしょ? それに関しては何万歩譲れば認めるのかしら?」
「盗んだんじゃない。借りてるだけだぜ、死ぬまでな」
「相変わらず、減らず口と言い逃れだけは一人前ね。
 私達を前に、そこまで何度も呆れた言い訳を吐いたのは貴女が初めてだわ。そしてその記録は金輪際、破られる事なんてないでしょうね」
「それは光栄だな。褒め言葉として受け取っておくぜ」
「貴女の場合、本当に褒め言葉として受け取っている場合があるから怖いのよ……」

 レミリアの皮肉も、魔理沙にはどこまで通用しているのか。目の前で呑気そうにしている人間の魔法使いに対して、レミリアは溜息をつきそうになったが何とか堪えきった。
 皮肉が通じない人間ほど、会話に苦慮する事もないのだ。

「ところで、こんな所で本当に何してるんだ?」
「見て解らないかしら?」
「…………紅茶を飲んでいるな」
「そう。たまには昼間のティーブレイクもいいかと思って、用意させたのよ」
「なんと言うか、吸血鬼の発想じゃないな」
「ふふっ、そこが優雅でしょう?」
「……どこがだ?」
「ま、人間にはこの優雅さは理解できないのね」

 ふふん、と笑うレミリアの頭の中では「昼間にティータイム→あえて弱点の中で優雅に紅茶を飲む私恰好いい!」という図式になっているのだと推測されるが、それは人間に置き換えてみれば溶岩のまっただ中で飲食するようなもので、どこが優雅なのかさっぱり理解できない。
 ただし吸血鬼たちにとってみれば、もの凄く優雅に見えるのかも知れないので、魔理沙はこれ以上の追求を止めておいた。

「……ふーん。ありきたりな事を訊くけど、日光は大丈夫なのか? まあ、ここにいる以上は大丈夫って事なんだろうけどな」
「その事もばっちり対策は打ってあるわ。ほら、上をご覧なさい」

 魔理沙が空を見上げると、上空には大きな雲がぷかぷか、というより、どっしりという感じで浮いていた。紅魔館の真上だけではなく、ある程度は周囲もカバーしている程に大きいが、雨雲と言うほどに黒くはなく、一見しただけでは少し分厚いだけの雲にしか見えない。
 ただし、通常の雲が風に流されてゆっくりと動いているのにも関わらず、その雲だけは空中で根を這ったかのように静止していた。

「あー、パチュリーの仕業か」
「そう。パチェに頼んで、紅魔館の真上だけ雲を置いて貰ったのよ」


 こんな芸当が出来るのは、魔女であるパチェリーだけだ。
 ……という例えも語弊があるが、より正確に表現するならば、魔理沙自身や魔理沙と同じく魔法の森に住んでいる、もう一人の魔法使いでも同じような事は時間と費用を無視すれば、一応は可能だろう。しかしその費用対効果は死ぬほど最悪なものになる筈だ。
 親友に頼まれたからと言って、ホイと気軽にやってのけるパチュリーの魔力は、相変わらず桁違いなものがある。


「……で。長い前置きになったけど、どうして侵入者の貴女がここにいるの? 図書館とは方向が逆よ」

 魔理沙は、その質問には答えず「んー、そうだな」と呟きながら、レミリアの対面に向かい合うような形で、置かれていた椅子に腰掛ける。

「ちょっと、何で貴女までここに座っているのよ?
 ……というか質問に答えてもらってないんだけど?」
「一つ目の質問に対しては、単に飛んでたらお前らが見えたんで、純粋に何をしているのか気になっただけだ」
「じゃあ、二つ目の答えは?」
「うむ、話をしている内に小腹が減ってきてな。私にもお茶とお菓子を頼む」
「……呆れた。盗人に追銭する奴が何処にいるのよ」
「私はまだ何も盗ってないぜ? 盗人ではないから客人だな」
「本当に一度、閻魔に口の中か頭の中を調べて貰った方が良いわね」

 お茶菓子が出てくる事を当然のように待ち受けている魔理沙の態度を見て、レミリアは呆れたような口調で、傍らに控えていた者の名を読み上げる。

「――咲夜」
「畏まりました」

 レミリアのただ一言のみで、命令は伝達する。完璧な従者に余分な言葉は不要なのだ。
 一瞬咲夜が消えたかと思うと、魔理沙の前にレミリアと同じ紅茶とお菓子が、整然と並べられていた。
 突然目の前に出現したこれらのお茶は、咲夜が時間を止めて煎れたのである。お菓子類はキッチンまで作り置きしていた物を取りに行っていたが、時間を止めていたので当然ながら本人以外にとっては、まさに一瞬……いや一瞬以下の出来事なのである。

 しかし魔理沙は咲夜の時間停止能力については、嫌になるほど知っていたので今更驚くべき所ではなかった。むしろ、魔理沙にとって驚くべき箇所は、テーブルの上に置かれているお菓子類の高い完成度のほうであった。

「おっ、悪いな咲夜。
 ……へー、これはまた美味そうだな」

 口へと運んだ名も知らぬお菓子の感触とその味覚に、思わず魔理沙の口から「美味い」という実直な感想が飛び出した。
 その後も、美味い美味いと頬張る魔理沙の姿は少女としてあまり褒められたものではなかったが、真っ直ぐな意見として自分の料理を褒められ、咲夜としても嬉しくないという感情はありえなかった。しかし、そこは悪魔の館の完璧で瀟洒なメイド長。
 澄ました顔で「褒め言葉でも嬉しいですわ」と瀟洒に返した。

「いや、咲夜の作る物は何だって美味いぜ?
 いつも思うんだが、毎回来るたびに違う物が出るのに、その全部が一様に美味いのが凄いよな。ひょっとしたら、不得意な料理を探す方が大変なんじゃないか?」
「ふん、当たり前だろう。咲夜の作るものが美味くない筈がない」

 主からの意外な褒め言葉に、咲夜は内心で喜びに満ちあふれる。ただし、決してそれを表には出さない。

「ほう? レミリアが純粋に他人を褒めるのは珍しいな。まあ、自慢したくなるだけの腕ではあるがな。
 しっかし、こんな美味いものを毎日食べられるって羨ましいよな……」
「だったら、うちで働いてみればいいじゃない。
 毎日咲夜の料理が食べられるし、パチェの本だって読み放題よ?」
「そいつは魅力的だ、と言いたいが遠慮しとくぜ」
「ふふっ、安心しなさい。私も貴女なんて雇う気はさらさらないから。
 あと一言だけ付け加えておくのなら、お前は侵入者という所だけは認めたのだからな?」
「侵入者にもてなしを施した時点で、客人と認めた事になってるぜ」
「――――――はあ、お前の減らず口には勝てる気がしないよ、まったく……」

 レミリアは紅茶を一口啜り、口内を湿らせた。まったく魔理沙の舌は何枚付いているのか。呆れを通り越し、感心してしまう程に良く回る舌だ。
 その魔理沙は、紅茶を飲んで「熱っ」と漏らした後、猫のように舌を冷ましている。どうやら良く回る分、熱には弱いようだ。

「少し熱すぎるぜー」などと咲夜に話しかけていた魔理沙に、レミリアは少し気になっていた事を訊いてみた。


「ところで、話は変わるが魔理沙。お前はこの屋敷に侵入する前、湖の上で一戦やらかしていたな?」
「ん? 見ていたのか。その通りだぜ。ここからじゃ結構遠いと思うが、よく分かったな」
「あんな派手な弾幕、嫌でも目に入ってくるよ。
 と、そこで一体誰と弾幕ごっこをやっていたんだ?」
「ああ、チルノだけど?
 まったく、あいつ弱い癖にあの湖を通るとき、いつも喧嘩をふっかけてくるからな」

 魔理沙はやれやれだぜ、と大袈裟な頭(かぶり)を振った。その様子を静かに見ていたレミリアは、更に魔理沙へと質問を重ねた。

「ほう……弱い、か。お前から見て、チルノは弱いと思うか?」
「ん? まあ……そりゃあ、妖精という事を考えりゃあ強いとは思うぜ? 妖精の中ではただ一人、スペカを使えるんだしな。
 だけど所詮は妖精だろ? 速度や回避力も特筆するほど高くはないし、そもそも魔力だって並の妖精よりは高いが、並の妖怪よりは低いはずだ」

 自信満々にそう答える魔理沙に対し、レミリアはつい「ふっ」と、失笑にも似た笑いをこぼす。
 それが魔理沙には気に食わない。

「なんだよ、何が可笑しいんだ?」
「そのチルノ相手に、お前は一度被弾を許した事があるそうじゃないか」
「――――なっ、何年前の話を持ち出してくるんだよ! くそ、誰が言ったんだそんな事……!」
「以前、神社に行ったときに霊夢から聞いたが?」
「うう、霊夢のやつ……!」
「自分の不注意を人のせいにするな。それに話を聞いたのは紅霧異変が終わってすぐだから、結構前だな」
「そ、そうだよ。確かにそれぐらいの時、一回だけ――いいか、一回だけ被弾した事はある。だけど、後にも先にもその一回だけで、それ以降負けた事なんてただの一度もないんだ!」

 必死で釈明する魔理沙は、いつもの不遜な態度とは違いかなり焦っている。まるで、宿題を忘れた子供のような言い訳のようにも見えた。もっとも、本当に魔理沙の生きてきた年月は一般的に言っても「子供」に分類される年齢なのだが。
 そんな魔理沙を正面に捉えながら、レミリアは顎に手を当てながら何かを考えているように見えた。

「……ふうん。一度だけ、か」
「そうだよ、悪いか?
 ……ああ見えてもチルノの弾幕って結構、初見殺しっぽい部分があるしな」
「初見殺し……まあ、確かにな。あの妖精の弾幕の中には、かなり嫌らしい弾幕も混じってはいるな。
 完全な不規則運動をする多弾弾幕は、多少の手練れであっても手を焼くであろうよ」
「ん? パーフェクトフリーズの事か?
 まあ、確かに他の弾幕は一度回避方法を見つければ何とでもなるが、まったくのランダム弾は始末が悪い。
 何せあいつ自身にも予測できないらしくて、一度なんか自分の撃った弾幕に被弾していたぐらいで…………ってなんだ、お前随分詳しいな?」
「………………」

 一呼吸分の時間のあと、レミリアは何もなかったように話を続ける。
 その僅かな変化に、いつも側で仕えている咲夜だけは気が付いたが、彼女はレミリアの従順な従者。レミリアが何も言わなければ、わざわざそんな小さな変化を他者へ知らせる義務はない。

「忘れたか? あの異変はスペルカードルールが適応されて初の異変だったのだ。その主催者として、周囲の勢力に気を配るのも当然の配慮だ」
「ああ、そういえばそうだったな。
 そうか……言われてみれば、あれが初めてスペカを使った異変だったな」

 魔理沙は当時を懐かしむように両腕を組み、うんうんと何度も頷いている。

「当時としても、よく考えられた上に面白そうなルールだって思ったもんだ。今更ながら、このルールを考えついて、普及させた霊夢の事を凄ぇ奴だってつくづく思うぜ」
「ふふん、流石は私の霊夢ね」
「何でそこでお前が得意げになるんだよ。そして霊夢はお前のものではない」

 魔理沙の鋭い突っ込みは華麗に流された。もちろん、レミリアの霊夢所有発言も真面目に受け止めている者はいない。少なくとも、一人以外は。

「スペルカードルールは本当に良く考えられている。
 そこいらにいる凡愚な妖精や妖怪、人間如きが、吸血鬼たるこの私はもちろん、天狗や鬼に天人、そして神までもとルール上は対等に戦えるのだからな。
 ――もっとも、ルールを『対等』に普遍させる上で、相当に割りを食っている連中もいる……というより、幻想郷ではその割合の方が多いだろうけどな」
「その辺りのコメントについては、私は多くは語らないぜ」
「ふん。まあ、『恩恵』を一番受けているのはあんた達、人間だからね」
「人間だけじゃなくて、妖精もそうだし、妖怪の中にも恩恵を受けている奴は沢山いると思うぜ?」
「ま、食物連鎖の基本はピラミッド構造だからな。妖怪の中にも取るに足らん底辺連中は沢山いる」
「それだけじゃない」
「?」
「例えば、河童だ。あいつら水中じゃ、ものスゲー強いらしいが、陸の上じゃ人間とそうは変わらないらしい。まあ相撲は強いらしいがな。
 それで、もし河童が天狗なんかと陸上で戦う事になったら、圧倒的に不利だ。だがスペルカードならそれが大分緩和されるだろ?」
「なるほど。……知識と理屈をこね合わせて説明するところは流石は魔法使い、パチェと同じだな。
 まあ、そんな事を言ったらパチェに睨まれるだろうが」

 レミリアはそう言い、笑いを噛み殺した。
 その様子を、魔理沙は腹立たしくも苦笑しながら見つめていた。こんなくだらない事だというのに、パチュリーと同格扱いされた事が、ほんの少しだけ嬉しかったりするのだ。


「ところで魔理沙。お前は、もしスペルカードルールなしで戦った場合、チルノに勝てると思うか?」
「――いくらスペルカードルールがなくなっても、チルノの魔力では現状とそう変わらない威力の弾幕ぐらいしか撃てない筈だ。他の妖怪ならともかく、チルノなら負けはしないと思うぜ。
 それに、あいつ馬鹿だしな」
「ふっ、浅はかだな」
「なにっ!?」
「スペルカードルールがない戦いだったならば、お前は今ここには居ないよ。……初見の被弾の時点で、な。
 ま、あいつが馬鹿な点は私も同意するがな」
「――――――」

 レミリアの言わんとしている事の意味を理解した魔理沙は、言葉を失い唇を噛んだ。
 スペルカードルールがない戦いとは、すなわち命を賭けた戦い。そして命というものは、肉体的強度を無視すれば人間であれ妖怪であれ一人に一つしか持たないものなのだ。つまり、魔理沙は一度目の被弾で、そのたった一つを失っていたという事になる。
 と同時に、なぜ今日に限ってこんな事を言ってくるのか、その真意を掴めないでいた。なにせ普段のレミリアは弱者に対して関心など持たないからだ。

「今日のレミリアはどうも変だな。
 さてはレミリア、もしかしてチルノに弾幕ごっこで負けたとか言うんじゃないだろうな?」
「なにを馬鹿な。
 相手がチルノならば何千回戦っても負けることはない。そもそも私はチルノと弾幕ごっこなどした事もない」

 冗談半分で魔理沙がレミリアをからかったが、返ってきた答えは冗談も巫山戯も混じってはいない。それを訊いた魔理沙は、何か引っかかる物があったが、まあ当然かとそれ以上追求しなかった。

「余計なことを聞いて悪かったな。じゃ、私は今度こそ行くぜ」
「待ちなさい」
「なんだ? まだ何かあるのか?」
「パチェとばかりじゃなくて、たまにはフランとも遊んでくれないかしら?」
「……前向きに検討しておくぜ」
「それは肯定と受け取っていいのね?」
「悪魔の耳は都合が良すぎるな。まあ、弾幕ごっこがなければいつでも歓迎だぜ」
「ふふ、そう? 咲夜、大事な『お客様』をご案内してあげて」

 レミリアの言葉は『お客様』という部分だけを強調していた。その中に込められた意味など、推測するまでもない。
 いつの間にか魔理沙の背後に立っていた咲夜は、案内役ではない監視役。魔理沙はやぶ蛇だったかと、少々後悔もしたがそれはそれ、とポジティブに気持ちを切り替えた。

「あー、レミリア。私からも一つだけいいか?」
「何かしら? 大事な客人ですもの、盗み以外の事なら多少の無理は聞いてあげてもよくてよ?」
「そうか。なら言うが、お前こそフランと遊んでやらないのか? 結構前の話になるんだが、フランはお前があまり構ってくれないと嘆いていたんだ。
 今は、ちゃーんと改善されているんだろうな?」
「……前向きに検討しておくわ」
「それは肯定と受け取っていいんだな?」
「こそ泥の耳は都合が良すぎるな。……ふん、まあ考えておくわ」


「こそ泥じゃないって言ってるだろ」などと捨て台詞を吐きながら、魔理沙がテラスを後にする。
 少々やぶ蛇だったかと思いながらも、レミリアはその後に続く咲夜を見送る。咲夜とパチェが居れば、フランもそうそう弾幕ごっこに訴えてくる事はないだろう。
 それにしても、とレミリアは魔理沙が人間の男でなくてよかったものだ、と一人口元を釣り上げる。あれは自覚がないのに、周囲を引きつける。
 その点で言えば霊夢と似ているかもしれない。もっとも、霊夢は他者への介入は積極的ではないが、魔理沙は積極手に他者へ介入するという大きな相違点があるが。





 咲夜が残してくれた紅茶を静かに嗜みながら、レミリアは先ほど魔理沙と交わした会話を思い返していた。

 ……確かに私はチルノと戦った事はない。少なくとも『弾幕ごっこ』では。
 あの時、魔理沙は『弾幕ごっこで』と訊いた。だから私は『戦った事はない』と答えたのだ。決して嘘は言っていないだろう?

 実際に、弾幕ごっこ……スペルカードルール上では、チルノと何千回戦っても負けないだろう。チルノの弾幕ごっこの強さは平均的な妖怪のそれと大差はない。……だがそれでチルノが弱い、と言い切れるか?
 答えは『NO』だ。

 弾幕ごっこの強さが本当の強さではない事は、門番である美鈴を見れば理解できる。
 美鈴は地上戦、そして格闘戦に限定すれば、この私とすらほぼ互角に戦える程の猛者だ。また、それでなければこの館の門番など任せてはいない。しかし、弾幕ごっこにおける美鈴の強さはどうかといえば、人間である魔理沙には敵わない。
 当然ながら私も誓約は受けている。グングニルも不夜城レッドも、真の威力の一割も出し切ってはいない。しかし、それでも圧倒的な地力によって、弾幕ごっこでも上位に食い込めるのである。

 チルノは、その点では美鈴と似ていると言えなくもないが、大きく違う点がある。
 美鈴のそれは修行により得た幅広い技術で、相手が何者であろうと隙を作らせない。そして二度、三度と再戦しても応用が利く。
 しかし、チルノのそれは全てが応用が利かず、同じ相手と再戦すれば敗北は必至。

 大ホールを氷漬けにした奇襲、グングニルを逸らした盾、巨大な氷塊での強襲。
 奇襲や強襲、奇手に奇策。そして相手の油断につけ込んだ変則的な戦術。それらこそがチルノの本領であり、そしてチルノはそういう戦い方しか出来ないのだ。

 だが、チルノが本来得意とする戦術は、そのどれもが弾幕ごっこでは使えない物ばかり。
 弾幕ごっこはにおいては、発動と同時に完勝してしまうような攻撃はもとより、逃げられない弾幕を張る事も、相手に致命となる攻撃をする事も禁止され、さらにスペルカードを使う時には、わざわざ『宣言』までしなくてはいけない。
 その上、面と向かい合ってよーいどんで戦いが始まり、スペルにも時間制限がある。こんな『実戦』など、一体どこに存在するというのか。

 もともと弾幕での戦いがあまり得意ではなかったチルノにとって、弾幕ごっことは切り札を封じられて戦っているに等しいのである。つまりチルノの強さは弾幕ごっこの外にあるのだ。





 ありえないだろうが、仮にスペルカードルールを排除した殺し合いが起きたとしても、私はもうチルノには負ける事はありえない。
 すでにチルノの戦法・戦術は全て見知り、そして見切っている。
 だが、今度はお互いの手の内を出し尽くす戦いにはならない筈だ。何故なら、万が一戦うような事があれば、戦闘の開始と同時に全力で攻撃し瞬殺するつもりだからだ。
 チルノを侮っているわけではない。理由はまったくの逆だ。

 私はあのチルノの“恐ろしさ”を知っている。馬鹿は予測が付かないとはよく言った物で、スペルカードルールの『誓約』が外れたチルノが、どんな予測不能な奇襲・奇策で不意打ちしてくるか予測がつかない。
 故に後手など選ばない。先の先で瞬殺、これが最良の選択肢である筈だ。

 だが、何度も言うようだが、そんな事態などまずあり得ないだろう。
 今の幻想郷は平穏に満ちている。そして、この平穏を誰しもが深く望み、スペルカードルールを初めとした『誓約』を受け入れてまで、それを永く維持しようと努めている。
 そのために霊夢のような博麗の巫女という存在が在り、そして八雲紫を中核とする妖怪の賢者達が、幻想郷の管理を行っている。

 かくいう私も、今の平穏を好いている。吸血鬼異変の時のような己の命をかけた全力での殺し合いも決して悪くはない。だが、このだらだらと続くつまらなくて退屈で、それでいて面白い平穏な幻想郷。そんな生活を受け入れてしまっている。

 テラスから下を覗いてみれば、中庭で妖精メイド達が和気藹々と談笑し、その片手間に手を動かして自分の周囲を掃除したり花壇の手入れをしている。

「は、どこまでも呑気な連中だ。
 お前達を助けるため、命がけで戦った者がいた事など、もはや記憶の片隅にすら残ってはいるまい。
 そもそも、知ってすらいるかも怪しいがな」





 チルノに敗れたレミリアは、全回復するまで三日もかかった。特に魔力を使い切っていたのが不味かったらしく、肉体の再生が通常より著しく低下してしまっていたのだ。
 だが、その頃には美鈴を始め、氷漬けにされていた従者達は全員助かっていた。助けてくれたのは、もちろん親友のパチェだ。

 従者は反対したが、約束は約束だと、私は館の妖精を全て逃がした。これで紅魔館からは働き手が居なくなり、一時期は日々の食事の用意すらままならなかったのだが、一ヶ月もすれば新しい妖精たちが住んでいた。
 そんな程度のものだ、妖精とは。馬鹿だから何の疑いもせず館に集まり、馬鹿だから辛いと逃げ出し、馬鹿だから前の苦労など忘れて館に戻る。
 しかもメイド服などを支給して、以前より待遇をちょっと良くしただけで、妖精達は逃げる事もせずに今の今まで、そのまま居座り続けている。

 そんな妖精のためにチルノはこの私と戦ったのだ。
 ……もっとも、妖精に対する認識を改めたのは間違いなくチルノとの戦いの後だ。その意味では、チルノは紅魔館で働く妖精達を『助けた』と表現しても良いかもしれない。


 チルノは、我が紅魔館から妖精を救うために戦いに来た筈だったが、館から逃げ出した妖精達がチルノに何らかの礼をした、という噂は今に至るまで耳に入っていない。
 それも当然だ。誰からも助けを求められた訳でもない。ただ自分の目で確認したというだけで殴り込みにやってきて、必死の思いで仲間を解放しても感謝されない。いや、それどころかチルノ自身、その能力故に普通の妖精達からは嫌われているというではないか。

 では一体何のために戦ったのか? 名誉、誇り、栄誉……そんなものではないだろう。
 自尊心? 確かにチルノは最強にこだわっているが、それだけで戦えるものなのだろうか?

 何か理由があるのか、それとも何も理由はないのか。
 人間に対し悪戯はするが、それ以上の事はしない。ちゃんとスペルカードルールを理解した上で、その範囲で可能な行動を取っている。それはつまり、チルノにはチルノなりの行動原理があるという事だ。
 そうでなければ代々の博麗の巫女によって、とっくに退治されるか封印されているかされている筈だ。
 なにせスペルカードルールが制定される以前、チルノはあの強い力を、少なくとも退治される程には“悪用”して来なかった、という事になるのだから。


 ……だからこそ、解らない。
 あの時、チルノは何故どうして、一握りの見返りも一片の名声も求めず、戦いを挑んできたのか。力を悪用してこなかったチルノが、命を賭けてまで?

 考えれば考えるほど、チルノという存在が不気味になる。
 何せ、この私に勝った事を吹聴していないのだ。あの性格から、情けをかけているとは思えない。相打ちならば勝ちにカウントしていないのか、それとも単純に再生したら記憶がリセットされるのか。もしくは常人には理解できない何らかの理由でもあるのか。
 これほどまでに不気味で恐ろしい存在を、皆、口を揃えては見下し、馬鹿だ馬鹿だと罵っているその様は、可笑しくて可笑しくて実に堪らない。





 紅霧異変時に、霊夢と魔理沙に敗退した事もあった。それ以降も、私は弾幕ごっこで大抵は勝利してきたが、やはり負ける時もあった。
 しかし、悔しくはない。チェスやポーカーなどと同じ、弾幕ごっこは結局は遊びの延長。弾幕ごっこで負けたのならば、弾幕ごっこで勝ち直せばいいだけの話だ。
 弾幕ごっこで負けたからと言って、命を奪いに行くような幼稚な真似は死んでもしない。

 ――だが。命をかけた勝負で私を屈服させた妖精、チルノ。そいつにリベンジマッチ出来ないのが、悔しくはある。
 たとえ何千回、チルノに弾幕ごっこで勝利を重ねたとしても、それは何の意味もないものだ。
 もし出来るならば、何の制限も誓約もなく戦い、あの時の借りを返したいという気持ちもあるにはある。このままでは、まるで勝ち逃げされたみたいだからな。

 だがまあ、それもよいか。
 我が生に数少ない敗北を刻んだ、最強の妖精。その教訓を、これからの長い寿命で生かせる訓戒と出来るのならば、その代償としては悪くはないだろうよ。

(――だから、せめてもう少し、あの情けない態度はなんとかならないものか)

 テラスから見下ろすその下では、ようやく湖のふもとまでたどり着いた……というより、流れ着いたチルノが、涙ながらに這い上がってきた所だった。
 それを美鈴や、同じく門番努めをしている妖精メイド達があやしながら、チルノを正門付近の待機所まで手を引いて案内して行く。


 年月とは、ある意味とても無情なものであるらしい。
 平穏を受け入れ、それを望み、その中に生きていると、大切な何かを得る代わりに、別の大切な何かを失ってしまうようだ。

 そして年月はまた、傷つけられた戦痕をも修復する。
 あの時付けられた紅魔館周辺の戦痕も自然の回復力の中に隠されてしまい、それを見つけ出すことは容易ではない。仮に見つけ出したとしても、その意味を知る事はないであろう。





 ――それにしても。
 吸血鬼異変から僅かも経っていない時期。幻想郷全体がピリピリとした空気に包まれていた時に、あれだけ派手な戦いを起こしてしまったのにも関わらず、それから何日も何年も、そしてついには今日に至るまで、隙間妖怪からも山の天狗達からも何も通達はない。

 何故か? そんなの私が知る筈もない。
 ただ、連中が全く知らなかったという事などありえないだろう。現に紅霧異変の時などはちょっかい出してきたしな。

「……沈黙こそは雄弁に語る、か。
 何かの意図かそれとも陰謀か。利用されたのは私か、それともチルノか。或いはその両方か」

 ――気に食わない。いずれ隙間妖怪も締め上げ、本当の事を吐かせなければならないだろうが、遺憾ながらそれは今しばらく先の事になりそだ。


「……さて。私も、久しぶりに図書館にでも、顔を出してみようかしら」

 レミリアは少し冷めてしまった紅茶を飲み干すと、カップを静かに置いた。
 とその時、落雷のような爆発音と共に、地震のような地響きが視界を二、三度揺さぶった。妖精メイド達は一瞬何事かと辺りを見回していたが、音の発信源が図書館だと分かると再び仕事という名の談笑へと戻った。

「ふふっ、ふははははっ!」

 誰もいないテラスで、ただ一人レミリアは小さく笑い転げた。

「――ああ。これだから現在(いま)は面白い!」

 やはり今は最高だ。歴史の歯車が一つ違っただけでも、今の紅魔館の姿にはなり得なかっただろう。その歯車の中に霊夢や魔理沙などと並んで、あのチルノも当然入っている。
 その事実に再び笑いながら、レミリアは大きく羽ばたき飛翔する。

(さあ、久々に私も遊んでみようかしら!)

 この時のレミリアの笑顔は、もはや吸血鬼が獲物を狙う時の物でも、戦場で敵をなぶる時の物でも、闇を支配する者の不敵な笑みでもなかった。
 その事に本人は全く気付いまま、煙を上げている図書館の天窓へと飛び込んで行く。

 ――本当に年月とは無情なものらしい。
 その光景を満足に見ていたかもしれない、小さな隙間が閉じた……ような気もするが、それもまた幻想。





 終








 ――ある時、ある場所で――


 小山一つ分はありそうな程の氷塊と、それに負けないほどの巨大な十字架のせめぎ合いを、遠くから眺めている二つの存在があった。
 それは空中に腰掛け、遙か遠くで起きている死闘を満足そうに眺めていたが、やがておもむろに指で空中をなぞると、そこに出来た空間の切れ目に身を潜り込ませる。

「最後まで見届けないんですか?」

 横に控えていた従者の問いに、その者の主は「もう結果が見えたもの」と答えた。

「結果、ですか?」

 九尾を風に揺らしながら、従者は主へと聞き返した。

「妖精の勝ちよ」
「私の計算では妖精の勝率は現時点で0.79%以下ですが、何か重要な計算違いがあるとでも?」
「貴女もまだまだね。妖精の勝率は0.38%以下よ」
「? 余計に下がっていますが……」
「それは普通に戦った場合よ。
 今までの戦闘を見れば判るでしょ? 当初、貴女は妖精が戦闘開始後、一分後も生きている可能性は十億分の一もないと言い切った。
 ……けど、実際に妖精はああして、すでに二十分以上の時を戦っている」
「確かにその点では私の見通しが甘かったと素直に認めなければなりませんが……」

 従者は首を捻りながら、主の言葉の意味を探った。なにせ自分の主は謎かけのような問答が大好きで、従者たる自分が言うのは烏滸(おこ)がましい事だが、その思考は実に不可解なのである。

「申し訳ありませんが、おっしゃっている意味が理解できません」
「そうね……これはあえて言うのなら『くぐってきた修羅場の違い』とでも言うべきかしら?」
「と言うと?」

 聞き返す従者に対し、主はただ一つ、作ったような笑みで返す。
 それは「貴女もまだまだね」という意味を含んだ笑みなのだ、という事だけは理解できた。

「ふふ、それじゃあヒント。
 あの吸血鬼は恐ろしく強い。けど、戦闘経験は年齢と比較してみれば思ったほど多くはない。何故なら、そう強くない敵に関しては、いつも従者が対応してしまうから、雑魚と戦う必要性がなかったの。
 まあ……温室育ちのお姫様と、野生を生き抜いてきた野良との違いというやつかしら」

 そう言うと、その者は隙間の中でくすくすと笑う。

「気になったのなら、残って結果を見れば良いわ。
 99%、妖精の勝ちよ」
「残り1%は?」
「吸血鬼のお嬢さんに、理性が残っていれば妖精が負けるわ。ただし、相当カッカしてるから、多分“頭上の危機”にまで気付いてはいないでしょうね」

 じゃあね〜、などと手を振りながら、その者は消えていった。
 後に残された従者は、眼前で続く前代未聞の光景をどうやって他の賢者達に報告するべきか、頭を悩ませながらただ見守る事しか出来なかった。


 だがこの主従の会話も、その者達が見ていた筈の戦いも、その後の歴史では伝えられていない。




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